ある利用者さんのお話し 2
(傾聴ボランティアの聴き書きです、ご本人の許可を得て掲載しています。ほっと・スペースだより より転載)
和歌のある人生 1
海に入りゆく思いに降り立つ
和歌のある人生 2
開け放つ窓より桜ふぶき来て
友禅模様を畳に描く
須磨では子供の小学時代を過ごし、横浜に越してきたのですが、須磨時代は春になると、須磨浦公園にお花見に。海を見下ろしながら、花見弁当をいただくのです。
幕内弁当で、卵焼き、神戸名物のかまぼこ、サッと煮た海老、明石だこを入れ、いろどりには、絹さややそら豆の緑を添えて。ご飯は関西ですから俵むすびでした。
花見がすぎ夏は子供たちの季節でした。家から水着を着て降りていける距離に海があり、毎日楽しく遊びました。
横浜に移り住んでからは、大岡川の桜まつりを楽しみました。ここは「桜の記憶」という、桜の老木を伐採した木材を活用して、家具などをつくる事業で知られていますが、見事な桜並木です。大岡川の桜は電車のなかからも、美しく見えました。
今年の花見は、この部屋の窓から正面に見える、学校の大きな桜でした。大きな木にたくさんの桜。みなさんが「お花見べやね」と私の部屋に遊びにきてくれました。
思えば、人にも、桜にも恵まれた人生でしたね。
河村幸子
和歌のある人生 3
「病気捨て永生きせよ」と六歳の
ひ孫の手紙 胸にズシリと
関東もグラッと揺れた東日本大震災の日、横浜の家に孫から電話。「こっちは大丈夫」というそばから「僕たちに子供ができた」。地震見舞いではなくて、なんと“初ひ孫誕生の予告電話”でした。
東京は水が売り切れている、というので、「妊婦さんになにかあったらタイヘン」と、そのころ元気だった夫と二人で水を買い出し、荻窪に送りました。
そのひ孫もすくすくと育ち、いま、六歳。私の大腿骨骨折手術のとき、見舞いにきたうえに手紙をくれ「病気を捨てて、長生きして」と書いてきました。
無邪気な「捨てて」に驚き、怪我で病人になってはいけない、とリハビリを頑張りました。ひ孫の一言、心に響きました。 河村幸子
和歌のある人生 4
迎えくれし息子の姿に息をのむ
夫在りし日の顔にそっくり
「お荷物ですよ」ホームの職員さんが、部屋までバナナ、カステラなど届けてくれます。「昨日の夜、頼んだのが、もう着いたの?」息子に言わせれば、ネット注文とやらでポチッとすれば、なんでもすぐに届くのだそうです。
昨年、夫を見送った疲れで倒れ、大腿骨骨折。手術からリハビリ、ひとりで自宅での療養は危険、娘と息子が探してくれたホームへ入所しました。引っ越した部屋に、初めて息子が入ってきた一瞬、息子が夫に見えたのです。こんなにそっくりだったの? 表情が似ていた?
優しい夫でした。その性格を受け継ぐ息子が迎えてくれて、私は新しい生活に、安心して出発したのです。
河村幸子
和歌のある人生 5
みずみずしき真白のあじさいに見守られ
リハビリに行く今日の一日よ
温めた秋田の黒石で足浴。肩と膝の電気治療、トレーニングマシンで筋トレ。自転車こぎ。それからマッサージを受けて、ボール遊び、三人組で足伸ばし。両手に杖でノルディックウォーキング。盛りだくさんのリハビリデイサービスは、息子が探してくれて、毎週一回通っています。楽しくおしゃべりをしながら、笑いながらリハビリ。お友達もできました。
お迎えにきてくれる車のなかから、家々に咲く白い紫陽花が
「いってらっしゃい」と励ましてくれるように咲いていました。
リハビリの日は、ぐっすり眠れます。
大腿骨骨折から一年、「ときどき杖」で、歩けるようになりました。
河村幸子
和歌のある人生 6
夕食へさそいの電話かけくるる
娘の声に心おどりて
ホームの生活は、医師の回診、リハビリに出かける日、習字や体操など、毎日それなりに忙しい。そうであっても、息子や娘と食事に出かけるのは、なかなかの楽しみで、気晴らしです。
息子とは近くの和食か、フランス料理のレストラン。娘とは、中華レストランへ。エビチリ、フカヒレスープ、ショーロンポウ、娘は私の好きなものを5品ぐらい注文して、二人で分けていただきます。 話題は6歳のひ孫のピアノ、バレー、水泳、英会話の報告、ひいおじいちゃん(亡き夫、春夫)にもらったクマのヌイグルミを「ハルくん」と呼んで可愛がっていることなどなど。心なごむひとときです。
河村幸子
和歌のある人生 7
弟がオムレツ届けてくれるという電話に
夫の笑顔ほころぶ
夫の2年のがん闘病で入院しているあいだ、週3回病院に通う私は、近くに住む弟夫婦に支えられていました。家から弟の家までひと停留所歩くのですが、寒い季節は「お姉様お迎えにいきます」と義妹から電話があり、弟夫婦が車を出してくれましたし、毎日のように夕食を用意してくれました。弟はオムレツに凝っていて、ふわふわした食感が夫のお気に入りでしたので、「今日はオムレツが届きますよ」というと、夫の顔が明るくなるのです。
夫は、最後の日まで清明で、午後、おやつをいただいてしばらくして旅たちました。
和歌のある人生 8
暖かき陽射しの縁側ほろほろと
母炒りませり五色のあられ
餅をつくとき、ひとかたまりは食紅で赤く、次はくちなしの実で黄色に、ごまを混ぜてと、色とりどりにしてつきます。それらをなまこにして薄く切り、またそれを小さく切って干します。 乾いた小さな四角の餅を、上下が金網のカゴに入れ、こんろの上で動かしながら炒ります。すると小さなもちがプッとふくらみ、香ばしい香りが漂ってきます。「ほら、できたわよ」と母が微笑みます。
幼いころに母が陽のあたる縁側で、5色のあられを炒ってくれるときの、幸せを思い出して作った和歌です。おひなさまのあられも、そうやって手作りしていたころ、陽射しの温かさと縁側の木目の景色とともに、大切にしている情景です。
悔いない看取りができたのも、支えてくれる家族がいたからだと感謝しています。
河村幸子
和歌のある人生 9
あたたかき新年なれや見あぐれば
庭の紅梅紅をのぞかす
40歳のとき神戸から東京荻窪へ。2年して鎌倉まで15分の金沢区の高台に家を建て、骨折してこのホームに来るまで50年近くを暮らしました。花が好きだったので、庭には白梅を、玄関と庭に紅梅を2本植えました。
これは何年か前の歌です。暖冬だった年、正月の忙しさが一段落してふと庭を見ると、紅梅の花芽が気になりました。白梅に較べ小さい花の紅梅ですから目を凝らして見ます。小さな蕾の赤さを確認できると、今年も咲いてくれるとほっとするのです。
ここ練馬でも紅梅が咲くのが楽しみです。梅の花の高貴な香りがすると、春もまじかと心楽しくなります。 河村幸子
和歌のある人生 10
幼日の湯上り母のふりくれし
天花粉の香に似る夕顔は
私の部屋には、看護師さん、薬剤師さん、たくさんの方が訪れ私を支えてくださいます。必ずお名前を聞き、ご挨拶をします。ある看護師さんは旧友と同じお名前。「まあ私の親友と同じお名前」と思わず手を取ると、小学校、女学校そして戦時に動員されいっしょに働いた紡績工場まで、次々と親友の笑顔が蘇ります。紡績工場の綿ぼこりで二人とも、肺を痛めたのに、苦しいことは忘れて、いいお顔ばかり。さっぱりしたほんとうに良い方たちでした。
四人兄弟のなかで女は私ひとりで、家族みなから可愛がられて育ちました。いやな思い出のない子供時代、なんと恵まれていたのか。よき思い出だけを大切に、温かな気持ちで過ごしていきたいと思っています。
河村幸子
和歌のある人生 11
元旦の伊豆の海面は青く澄み
水脈引きてゆく白き舟あり
私の暮らすホームの友人は、下関のお生まれ。おはなしのつれづれに、下関名物のかまぼこのお話がでました。かまぼこは大好物。須磨に住んだ30代のころによくいただいた明石の美味しいかまぼこ、タコへと話題がひろがりました。
須磨時代、子供達は幼稚園のころから海で泳いで育ちました。夕方、漁師のおばさんがバケツいっぱいのタコを持って売りにきます。「タコが出た」と子供の声に振り向くと、一匹のタコが這い出して逃げていくところ。あえなく捕まり「かー坊ちゃん、(息子のあだ名)ひとつおまけだよ」とそのタコもいただいて‥。
そんな景色がありありと蘇ります。
それから横浜に移り住んで50年、伊豆にもよく行きました。家族、友人、人に恵まれ、その上に折々に、海の恩恵も受けた人生なのです。
河村幸子
和歌のある人生 12
今頃はローマの空か果てしなき
希望抱ける孫と花嫁
歌集「薫風」をひもとくと、人生の感動を思い起こすことができます。一番の感動は終戦後の二十代の出産、男の子と女の子が一度に。いまなら考えられないことですが、生まれるまで医師も自分自身も双子とはわからなかったのです。
やれやれ生まれたと思ったとき、医者の「大失敗だ」の声。なにごとかと驚く間もなくもうひとりの赤子が生まれ、それから夫の実家も私の実家も嬉しい悲鳴。足りない産着が用意され、その上引きも切らずにお客様が祝福にきてくれました。当時は男の子と女の子の双子は珍しかったのです。
育児で一番心配したのは、一貫校への小学受験の受験資格がクジで引きで決まるというとき。一人が落ちたらどうしよう。気を揉みました。二人ともに受かったときは本当にホッとしました。
この歌に詠んだのは双子の女の子のほうに生まれた、孫の男の子の結婚です。小さいときから家で預かり懐いてくれた孫です。大学、就職と階段をあがり夢いっぱいの結婚式。二人の人生への期待を乗せて飛行機は飛んでいくのでしょう。平和な時代に、孫の結婚を経験できたことはなんて幸せなのだろうと、思った気持ちが歌になりました。 河村幸子
和歌のある人生 13
梅水仙春告ぐる菓子携えて
今年も年賀に娘(こ)は訪(と)いくるる
新年には、娘が練り切りのお菓子を持って年賀にきてくれるのが習慣になっています。今年は鶴など、縁起ものの美しい練り切りが5つ。これまた上品な箱をあけて「早くたべてね。硬くなるわよ」という娘。
ここは医師や看護師さん、介護士さんに守られて暮らす生活。食事も入浴もすべてが安心で清潔です。
新年に思うことは、このごろの心の落ち着きです。傾聴ボランティアさんと話していると人生の、よきことを思い出します。私の和歌にまつわる聞き書きが発表されますと、ちょうどいい近況報告になりますので、和歌の先輩や友人に送ります。するとあちこちからお電話をいただきます。広い世の中のどなたかに、私の和歌が届いていくのも生きる喜びです。
河村幸子
和歌のある人生 14
学徒出陣・高度成長 ひたすらに支えきし
兄すこやかに米寿
長兄は海軍軍人でした。南の海へ決死の作戦に乗り出そうとした出航の日、兄は盲腸炎となり泣く泣く陸に残されました。出航した軍艦は撃沈され、兄は悲嘆のなかに沈みます。
自分だけ生き残ったと苦しむ兄に上官は「あなたは大切な長男に生まれたのだから、しっかりと生きなくてはならない」と諭し、兄は生きる気力を取り戻しました。
父は医師で、戦火のなかの診察、往診に疲れ果て、「空襲警報が鳴るときだけが休める」と壕のなかで眠る生活でした。過労がたたり風邪をこじらせてあっけなく亡くなると母もあとを追うように亡くなりました。父のあとを継いで医者になったのは次兄でしたが、長兄は家長として、兄弟のなかでひとりの女の子だった私の結婚、出産、人生を、生涯にわたり支え続けてくれました。 河村 幸子
和歌のある人生 15
雪残る川の堤に薄紅の河津桜は春を連れくる
咲き満つる谷間のさくら白じろと夕べ耀う(かがよう)色深くして
私の部屋の前には小学校の大きな桜があり、ホームのお友達が来てくれお花見するのですが、今年は新型コロナの感染防止でひとり寂しく桜を眺めました。
咲くさま、散るさまに人生のときどきに桜を詠んだ和歌が浮かびます。下田の家に通う道、春を告げ咲く河津桜に心弾んだこと。高架の道路から見下ろした谷間の桜は、その白さが夕方の光を集めて、はっと胸を突かれる美しさでした。
今年の花見は窓越しに家族とみなさまのご無事を祈るばかりでしたが、その想いに応えるように、今年の桜は長く咲き続けてくれました。 河村幸子
和歌のある人生16
コロナ禍よ とく去りゆけと短冊に 記す今宵の七夕まつり
あたたかき陽ざしのなかに思うことコロナ禍ゆえに会えざる友を
コロナ去り思う存分はらからと 語り合う日よ待ち遠しかな
娘や息子と少し美味しいものを食べに行くことは、もちろん休止。会うこともできません。家族とはもっぱら電話での会話。寂しいのは、お友達のいる体操に行けないこと、傾聴ボランティアさんとのおしゃべりができないこと。会話ってとても大切です。自分の趣味、価値観、暮らしのこと、語り合えれば心が晴々としてきて、楽しい。けれど我慢ですね。愚痴をこぼさず、小さな楽しみを見つけましょう。
気配りの食事やおやつは有り難く、湿疹が出れば専門医の診察、忙しく1日が暮れて、職員さんとさりげない会話をして「おやすみなさい」。なんの心配もない生活に感謝して、また素敵なお話ができる日を待っております。 河村幸子
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