ある利用者さんのお話し 3
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし① Tさん (93歳)
うちは農家で、お米と野菜は何でも作っていました。息子は一人、孫2人。孫のひとりは大学の教授、一人は仕事で外国暮らしが長かったけれど、最近帰国しました。
(今の住所表示の)上Aの農家から下Aの農家に嫁いだけれど、川越にお殿様がいるので下Aのほうがお殿様に近いから当時の考えでは上等な土地でした、だからこのお嫁入りは出世だったんです。このホーム(氷川台)のあるあたりは、練馬っ原(ねりまっぱら)といって、田んぼは少なかった。とれるのはおかぼ(陸稲)。このへんからもお嫁にと言う話もあったそうだけれど、親は「娘におかぼは食べさせられない」と、断ったそうです。
実家は宮大工もしていて、兄二人は戦争で中国に行きましたが、一人は大将の運転手、大将は最前線になんか行かないから兄も大丈夫、もう一人は事務の担当で後方任務、二人とも無事帰還しました。お上も数少ない宮大工が戦死しては困ると思ったんでしょう。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし② Tさん、93歳
戦争中、Aには飛行場があった(今の光が丘公園?)ので、よく空襲がありました。あるときうちの近くの民家が誤爆されて、家にいたおばあさんと小さな孫二人が犠牲になってしまいました。みなでばらばらに吹き飛んだ遺体の破片を拾い集めて、近所の歯医者がつくったワラ人形にはりつけてお棺に納めました。私が拾ったのは首筋のうしろの皮膚。うなじの生え際の髪の毛が残ってついていました。少しも恐いとは感じなかったですね。
戦後は米兵が飴やガムを配るので、子供たちは競って走って取りに行ってしまう。息子には行かせたくなかったけれど、とめても子供の事だからね、行ってしまった。
戦時中、戦後と、食べ物がなくてもうちは農家だったので、お米だけはありました。私の嫁入り道具の箪笥一式の代金は、家具屋から、現金半分で残りはお米にしてほしいと言われたと聞いています。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし③ Tさん、93歳
結婚式の時は、自分の髪で高島田を結いました。三日後に初めての里帰りができる習慣で、その時にやっと髪をほどいて洗えるんです。
姑は脊椎カリエスで寝たきりだったけれどすごくいい人でした。よく髪の毛をすいて横編みにして耳の横から上に結い上げて、寝ていても頭の後ろが痛くないようにしてあげました。喜んでくれていましたし見舞いに来るお客たちからも褒められました。姑での苦労はありませんでしたね。
戦時中のこと、供出米(強制的に政府に一定価格で売るお米)はあまりよくないのを出して、うちで食べるお米はいいのを取っておいてありました。女中の兄が紙芝居をしていてよく家の前で子どもたちを集めてやっていましたが、帰ってから見るとそのたびに米びつのお米の減る量が多いんです。夫が不審に思って、その女中を辞めさせたら米びつの減る量は戻った。みな飢えていたんです。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし④ Tさん、93歳
戦後、水餅(カビを防ぐため水につけておいた保存用お餅)を大きな甕に入れてあって、農作業のおやつにしていました。人手のある家は、その時間になると持ってきてくれる人もいたけれど、うちはいなかったので、朝からおやつまで持って行きました。水餅を乾かして焼いてからクズ海苔を巻いて、または白菜のおしんこを巻いて、お重につめていくと固くならなかった、おいしかった!
たくわん漬けもよくつくった。泥だらけの大根を大きなタライに入れて、上の方を洗う人、下の方を洗う人と分担して二人がかりで洗った(ひとりでひっくり返して洗うより能率的)、仕上げ洗いを別のタライで別の人がやってから、背より高い柱に両端に縄を張って、そこにしばって何段にもして干した。色付けしないものと、黄色に染めるものと二種類作って、お店に卸していました。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし⑤ Tさん、93歳
夫は珍しもの好きだったので、新しい電気製品などはいち早く買いました。洗濯機もローラーに挟んで手でぐるぐる回して絞るもので、右手を怪我した時など回せなくて、かえって大変でした。
冷蔵庫も氷を入れて冷やすものでした。畑で農作業をしていると、魚屋、お豆腐屋などが売り歩きに向こうのほうを通りかかります。遠くから声をかけてくるので、こちらも大きい声で魚屋さんなら「なにを何匹、冷蔵庫に入れておいて」などと叫ぶんです(うちに行って帰ってなど、時間がもったいないので。当時は家に鍵などかけなかった)。大きい声で言うので、同じく農作業をしている周りの人は、私が冷蔵庫のあるのを自慢しているように思ったかもしれないですね。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし⑥ Tさん、93歳
お正月のおせち料理は全部うちで手作りです。なまぐさものは使わないで、材料はみな家で取れたものだけでつくります。買ったのは、クワイと数の子だけ。クワイはこの練馬あたりではとれなかったのです。昆布巻きも夜なべ仕事で、居眠りしながら巻いたけれど、中に入れるのはニシンではなくて人参。お雑煮のお椀の中身も、お餅、サトイモ、にんじん、ごぼうなど畑のものだけです。
お供えは一式を七つ作って、それぞれの神様にお供えします。ご先祖様はもちろん、かまど(台所)の神様、井戸の神様、厠の神様などです。
いまは仕出し屋さんから取ってしまうけれど、それでいいと思いますよ。お嫁さんは楽させてもらってすみません、と言っているけど、今と昔とは違うんだから。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし⑦ Tさん、93歳
新らしもの好きの夫は、テレビもいち早く買いました。近所の人たちが夜になるとたくさんやってきて、座敷はいっぱいになります。私はお茶入れに忙しくてゆっくりしていられない。なかなか帰らないのでしかたなく縫い物などして起きていなくてはならないんです。夫に文句を言っても、みんなが喜んでいるんだからいいじゃないか、と言って、とりあってもらえなかったですね。
ネズミが出るので猫を飼っていたけれど、外から帰るとどろどろの足で上がってきて大変なので、大きな雑巾を敷いてその上で足を拭いてから上がるようしつけた、もちろん、拭きはしないけれど(笑い)、そしたらほかの入口から入ってもその雑巾まで行くので、かえって汚れた足跡が長くなってしまいました。
戦前、戦後の練馬の農家の暮らし⑧ Tさん、93歳
女の子がいなかったけれど、私は手仕事が好きで、編み物、手芸、木目込み人形など、東武デパートに教室があって、毎週一回、急いで地下足袋を脱いで手を洗って、通ったのが楽しみでした。
隣りの家は豪農でお大尽で、雨で農作業ができない日など、奥さんからよく手芸などに誘われました。盆景(お盆の上に土、砂、石、苔、草木等を配置して自然の景色を作り鑑賞する趣味)をやっておられた。庭には大きな池があり立派な鯉がたくさん泳いでいたものです。が、息子さんが働かない人だったようで、今は家屋敷など、跡形もなくなってしまった。その方から借金のカタに頂いた、中国の竹製の掛け軸、彫りのある大きな象牙の置物、紫檀の飾り台などが家にまだおいてあります。うちは息子も孫たちもまじめに働いてありがたい。とにかく地道に正直に働くのが一番いいことです。(終わり)
