ある利用者さんのお話し 1

budある利用者さんのお話からbanana        k.t.
penguin(傾聴ボランティアの聴き書きです、ご本人の許可を得て掲載しています)

105歳?106歳?
 私が傾聴ボランティアをさせていただいているご婦人は明治43年9月生まれ。足はご不自由で施設におられますが、年相応の思い込みの強さや混乱は時々あるものの、頭脳はしゃっきり、お見事です。福岡は中洲の割烹旅館のひとり娘さん、花よ蝶よと育てられ、これもやるしこれも、とおちょこを口に運ぶ様子、指をチョキにしてタバコをふかす様子をされます。わがまましてきたのが、長生きの秘訣、と。
 私は105歳、と、いつも言っておられたのが、ある日、「106歳だって、(職員さんが)言うのよ、いやだわ、そんなに年取って」と。「えっ、一歳でも若いほうがいいんですか!?」と伺うと、「そりゃ、そうよー」と。二人で大笑いしました。100歳超えの女心です。
(「ほっと・すぺーすたより2月号」よりの転載)

四つの時代を生きて
 前回ご紹介した百歳を超えておられるご婦人、Aさんのお名前は「美津子」さん。Aさんは名づけてくれたお父さんにとても感謝しているとおっしゃいます。明治の終わりの時代に、女性の名前は、たとえば、まつ、うめ、りつ、などが主力。「子」がついて漢字3文字というのはとてもモダン、おしゃれだったそうです。豊かな割烹旅館のご主人の、娘さんに対する愛や誇りがこめられているようです。福岡の中洲、メインストリートの真ん中にはAさんの旅館、前は魚屋さん、隣りは真綿屋、その隣りはお餅屋さんが製造販売。
 いい時代だった、楽しかった、幸せな人生だった、と毎回おっしゃるAさん。指折りながら、「明治、次が大正で15年、昭和は長かったね、何年?、今は平成」としっかり現在の認識がおありです。でも思い出は主に子ども時代にさかのぼります。そのときの気持ちとともに細部まではっきり語られますので、映画を見ているように情景が浮かびます。ひとりで聴かせてもらうのはもったいないので、ご本人の許可を得ましたので、少しずつご紹介したいです。
(「ほっと・すぺーすたより3月号」よりの転載)

四つの時代を生きて(2)はこせこ                 宗sou アンティーク 折鶴に寿模様はこせこ


 「男蝶女蝶」読み方は「おちょうめちょう」。美津子さんの幼少期、大正の初め、婚礼には男女の子どもが酌人を務めたそうです。子供の生存率が低かった時代、成人を迎えるのが困難だからこそ子供は神聖であったそうで、子孫繁栄を願っての事だったかもしれません。美津子さんは、町内で婚礼があると必ず女蝶役を頼まれました。男蝶は二歳年上の「いちろう」君。男児は紋付き袴があればいつでもOKですが、女児はいつも同じ振袖、という訳にはいかなくて、その誂えができるのは、裕福な商家のひとり娘の美津子さんしかいなかったのです。豪華で美しい「はこせこ(箱迫)・懐紙や鏡、お守りを胸元に差込んで懐中する箱形の装飾品」を新調の振袖の.胸にさして、花嫁の介添え役は、女の子にとってさぞ晴れがましくうれしかったことでしょう。いつも繰り返しお話しされることの一つです。
(「ほっと・すぺーすたより4月号」よりの転載)

四つの時代を生きて(3)大火事とはこせこ
「忘れもしない大正12年1月17日の早朝」と、美津子さんは語ります。博多の中洲は大火にみまわれました。割烹旅館の裏にあるお餅屋さんが、正月明けの初のお餅を搗くためにかまどに火をつけたところ、脇に積んであったワラかマキの山に引火したのです。多分、冬晴れの今なら乾燥注意報が出るような日だったのでしょう。火は瞬く間に商店街を焼きつくし、女学校の受験勉強のために別宅にいた美津子さんは、かなたの真っ赤な空を眺め、もしかしたら本宅の方かしら・・と不安にかられていたところへ、ススで顔を真っ黒にした両親がよろよろと現れました。「みんな焼けてしもた・・」と。その両親に美津子さんが言った最初の言葉は「はこせこは?」「それどころじゃないばい!!」お二人は絶句されたとか。
 
四つの時代を生きて(4)大火事とはこせこ・その2
大正12年1月17日の中洲の大火事は早朝だったため、美津子さんの割烹旅館では夜の遅い仕事のため従業員はまだ熟睡。気づいた両親が呼んでも叫んでも女中さんたちはだれも起きなくて、板前さんが一人ずつ蹴飛ばして起こして回ったそうです。そんなこんなで貴重品は何も持ち出せなかった一家。火事の三日後くらい、お母さんに連れられて美津子さんは焼跡へ行きました。まだところどころでくすぶっている焼け跡で、お母さんはダイヤモンドをさがします。「このへんが居間だから、このへんに箪笥、その引き出し」と。「あるわけないのにね、母親の見栄だったからね、ダイヤは」・・と美津子さん。「私の見栄は、はこせこ」「同じものを何回も使うのはイヤと言って、松坂屋から取り寄せてもらっていくつも持っていた、我儘でねぇ」美津子さんの想いはいつも幸せな子供時代にかえります。
 
四つの時代を生きて(5)お弁当
美津子さんの小学校時代はみなお弁当。おばあ様はかわいい孫に冷たいご飯など食べさせられないと、ほかほかのお弁当を届けに毎日学校に来ます。「ふつうのおうちは朝にご飯を炊くけど、うちは割烹だったので、昼にご飯を炊くの」と美津子さん。当時は和服に下駄。長い板張りの廊下に下駄の音がコンコンと響き、どんどん近づいてきます。ガラッと教室の戸を開けて「美津子、お弁当!」とおばあ様は堂々の弁当配達です。お昼近くになると、子供たちは耳をそばだててソワソワし始めます、いつ来るかな? 今日も来るかな? 授業に集中しなくなって先生は困ってしまいます。「止めて下さい」とお願いしても、殊勝に「はい」と返事するものの、平気でまた次の日も持ってくる。先生は、お手上げ、あきらめたそうです。そのお弁当、どんなおかずが入っていたんでしょうね?
 
四つの時代を生きて(6)お弁当その2
大正の初めころ、美津子さんのおばあ様が毎日小学校に運んでくれたほかほかのお弁当、どんなおかずが入っていたんでしょう? 美津子さんいわく「割烹だったからなんでもあったのよ」「蓋を開けるとみんなのぞきこんでねー」「卵焼き、お魚の煮付け、かまぼこ、かまぼこなんてふだん食べられるものじゃなかった」。そうでしょう、今でこそ安いものもスーパーで売ってますけどね。「東京から板前さんを二人も呼んでね、東京天婦羅って売り出して、母は才覚のある人だった」「売れなかったけどね・・」と笑います、そして、「なんて幸せな子ども時代だったろう・・」と。百歳過ぎの今まで、なんと戦時中も含め、食べるものに困ったことはなかったという美津子さんの人生。「ここ(この施設)もお食事はいいのよ、とてもおいしいの」とうかがって、ほっとしました。

 四つの時代を生きて(7)水泳の授業
小学校の体育の授業、夏は「海での水泳」。学校から海へ行く道はたくさんあるのに、男先生は生徒たちを引率して必ず美津子さんの割烹旅館の前を通ります。ワイワイガヤガヤ、子どもたちの集団が近づいては通り過ぎ、どのくらい後でしょうか、また逆方向から戻って来ます。待ちかまえていた美津子さんのお父さんは外に飛び出します、「先生、冷たい麦茶をどうぞ」。女先生に子どもたちを任せて男先生はいそいそと中に。茶色い液体でも麦茶ならぬ麦酒(ビール)。浜帰りの冷えた一杯はさぞおいしかったことでしょう。女先生も心得たもので、そ知らぬふり。でも、学校に着く前に追いつかねばと男先生はあとを追います。「かくしたって、臭くてバレバレ」と笑いながら美津子さん、「そういうことが許される時代だった、今だったら大変よね」と。ころは大正の始めです。
 
四つの時代を生きて(8)お琴の合奏
有名な博多どんたく。「今は知らないけど私の子どものころはね」と美津子さん、目抜き通りの商店は店先に簡単な屋台を出して、自家製のご馳走を並べ、威勢を競ったそうです、町内の人はもちろん、旅行者も誰でも食べ放題。余興もあちこちで。お琴を習っていた美津子さんは、役員さんから美人で評判な義理のお姉さんと神社の舞台での共演を頼まれます。「みっちゃんは下手だからイヤ」と言うお姉さんは皆の説得に負けて「じゃ、みっちゃんは最初の、とん、てん、しゃん、だけ弾いてあとは、弾くふりだけよ」という条件でOKを出したのに、美津子さんはかってに随所に「とん、てん、しゃん」。おそろいの振袖の美人姉妹の合奏はさんざんなことに。その後、このお姉さんは、陸軍の大尉さんに望まれて結婚したそうです。当時軍籍にある人は民間人とは結婚しない習わしを、わざわざ遠縁の軍籍にある親戚の養女に入ってのお嫁入りだったとか。ころは大正の初め、日露戦争後十数年? 軍人さんの時代だったのですね。

 四つの時代を生きて(9)遭難
中洲の商店街には子供の遊ぶような広い場所はなくて、子供たちはいつも潮の引いた中川で遊んでいたそうです。ある日、いちろう君他女の子三、四人で夢中になっていたところ、ふと気がつくと潮がひたひたと上がってきています。さあ大変、男の子はふんどしを取って、着物をしばり頭の上へ、それを見た女の子たちは、赤い腰巻を脱いで、着物をつつみ首のうしろにくくりつけました。みな下はすっぽんぽんです。(ここまで話すと美津子さんは、必ず笑いこけます)。着物を濡らしたら母さんから怒られる!その恐怖心は命の危機より深刻だったようです。溺れかけたとき、通りかかった釣りに行く見知らぬおじさんの小船に救助されました。川岸には母親たちが提灯を手に泣き叫んでいます。おじさんに船から押し上げてもらうと、母親のげんこつが降り注ぎました。「この馬鹿ちんが!!」。「あのとき母親はあのおじさんにちゃんとお礼を言ったのだろうか、怒るのに夢中でね。それがいまだに気がかりで・・」と言う美津子さんです。
 
四つの時代を生きて(10)映画スターに?
 大正12年の博多の大火以降、割烹旅館を再建することなく美津子さん一家は母の縁を頼って熊本に、その後は京都に移住したそうです。「住みやすい、いいところだった」と美津子さん。この大正12年は、日本映画の父と言われる牧野省三監督が、マキノ映画製作所を設立した年(京都市等持院?)。京都にいた母の従妹氏は美津子さんを映画スターにしようと売り込みに奔走したそうです。テストを受けたのか写真だけを送ったのか判然としませんが、とにかくなんの返事もないので従妹氏が問い合わせたところ「カメラフェイスがよくない」との返事(美津子さんのことばのまま)。写真うつりが悪かったんでしょうかね?「私がなりたいと言ったわけじゃないのにね・・」と、美津子さんはいまだに不満そうに語ります。今から八十年前くらいの、娘時代のお話しです。

 四つの時代を生きて(11)求婚者
 京都時代、京都駅前のデパート(物産館)に社長さんのコネで入っても三日で辞めるような自由な暮らしの美津子さんに、熊本から二人の求婚者が訪れます。「私はスタイルがよくて、イケメンじゃなくちゃいやだったのよ」と美津子さん。一人は弁護士志望という男性、この人は「頭はいいだろうけど、顔が好みでない」、もう一人は、自転車屋さんの息子さん、「見かけはよかったけど、自転車なんていや、まだ自動車ならよかったけど」。お金持ちの一人娘にわざわざ遠くまで求婚に来るくらいですから、町の自転車屋さんではなくて、製造業のほうの御曹司だったんでしょうにね。
「わがままのし放題だったのよ、私は。あー、幸せな人生だった」、いつもこの言葉で美津子さんはお話しを締めくくられます。 

四つの時代を生きて(12)夫とのなれそめ
 「待合(まちあい)ってご存知?」私が美津子さんに夫君との出会いを伺った時の返事です。「えー、今のラブホテルのようなものですか?」どんな話がはじまるのか少しドキドキしながら訊きかえしました。「違うわよ、お料理やお酒が出て芸者さんが接待してくれるところ」とのこと。いまいちよくわかりませんが、美津子さんが親戚の男性に連れられて、熊本の待合に行ったところ、上がりしなに、二階から勢いよく降りてきた男性と鉢合わせ、ぶつかりそうに・・。それがなじみの芸者さんと遊んでいたのちに夫となった人。彼は美津子さんに一目惚れ、その芸者さんとは別れて美津子さんと結婚。「彼、かっこよかったのよ」と美津子さん。山持ちで、実家には弟さんがいた彼は、家業の権利を弟さんに譲り、その利益で仕事は何もせずに二人は豊かに暮らしたとか。ちょっと想像できませんがそれが許される「時代」だったのでしょうか。美津子さんが幸せな人生だった、と言うゆえんです。
 
四つの時代を生きて(13)美津子さん、その後
 戦時中でも食べ物に困ったことはない、という美津子さんの結婚生活。戦後、ある日夫とケンカした美津子さんは知り合いを頼って一人で上京、人に勧められ新橋で居酒屋さんを買い取りオーナーに。その後にあとを追って上京してきた夫君や、甥っ子さんと会社を立ち上げます。世の中は洋装の時代に移り、その服飾関係のお仕事は順調で、現在も一族で経営されているようです。転んで腰を痛めて入院された二年ほど前の104歳くらいまで、会社の敷地内にあるご自宅で気ままに一人暮らしをされておられました。その住み慣れた練馬の自宅に帰って、行きつけのお寿司屋さんにお友達(亡くなった同年代のお友達の娘さんたち)と行くのを楽しみに、そしてそれを生きるよすがに療養生活をされていましたが、最近、お孫さんのお住まいのある郊外の特別養護老人ホームに移られました。我が家で最後まで暮らすことのなんと難しいことか! 
次回からは、別のボランティアの聞き書きをお届けします。

(傾聴ボランティアの聴き書きです、ご本人の許可を得て掲載しています)

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